堪え性

 K・ローレンツは「文明化した人間の八つの大罪」の中で、現代人は「不快を触発するあらゆる刺激状態にたえず敏感になり、快を触発するあらゆる刺激的状態に対してますます鈍くなる方向」に進んでいると書いている。

誰しもがそれぞれの喜びを見つけることに困難を感じており、また、ちょっとでも不快なことにはすぐに苛立ち、突然相手に切りかかるような輩がどんどん増えている。

どうしてそんなことになっちまったのか?

かつての我々には、ちょっとしたことが大きな歓びの源であり、煩わしいことには自然と堪える習慣が身についていた。

たとえば、昔なら何でも有難く食べていたのに、この頃ではかなりうまいものを食べないと納得しなくなり、ただ酔えればよかった酒が、味やコクなどとやかましいことをあれこれのたまう族が増えた。

 

 変に情報過多に晒され、自己主張のつもりだろうが、これが度を過ぎてるとは気づいていない。

何様のつもり‥なのである。

サラリーマンの悲哀くらいで済んだら結構。

これが結構尾を引くのである。

「絆」ばやりであるが、うわべだけの「そのつもり」か「そのふり」程度が罷り通っていて、エセ絆でその場をごまかし、耐える・堪えるをすりかえているのである。