お国自慢

 鹿児島出身というだけで、さも自分が明治維新の立役者の家系と誇り高く語る人がいる。

小生の生まれは商家の家系らしく、そのような方々を相手に商ってきた手前、表立ってはへつらってみせるが、内々ではそのような輩を馬鹿にしていた。

かつての士族や、西郷の私学校生徒等は大部分西南の役で死に絶えており、残った男達はおよそ薩摩隼人らしくない低級品であり、田舎根性だけの出自自慢、目端の利いたやつは中央へ出払ってしまい都会人に成りすましている。

それでも、事あるごとに故郷自慢は西郷と焼酎と明治維新である。

ご本人とは何ら関係もない話にもかかわらず、ただ鹿児島県人の横取り自慢が始まる。

 そういう鹿児島がいやで18歳で上京し、薩摩隼人を捨てた。

語尾の下がる薩摩弁も好きになれず、イントネーションの怪しい標準語で話している。方言を文化だと持ち上げる文化人はいるが、どこが文化なのかわからない。

所詮言語学者の端くれがおべんちゃらで言っているんだろう。

 自慢というのは自己結果をいうのならまだしも、本人に関係のない場合が多い。

 

 

 

 

堪え性

 K・ローレンツは「文明化した人間の八つの大罪」の中で、現代人は「不快を触発するあらゆる刺激状態にたえず敏感になり、快を触発するあらゆる刺激的状態に対してますます鈍くなる方向」に進んでいると書いている。

誰しもがそれぞれの喜びを見つけることに困難を感じており、また、ちょっとでも不快なことにはすぐに苛立ち、突然相手に切りかかるような輩がどんどん増えている。

どうしてそんなことになっちまったのか?

かつての我々には、ちょっとしたことが大きな歓びの源であり、煩わしいことには自然と堪える習慣が身についていた。

たとえば、昔なら何でも有難く食べていたのに、この頃ではかなりうまいものを食べないと納得しなくなり、ただ酔えればよかった酒が、味やコクなどとやかましいことをあれこれのたまう族が増えた。

 

 変に情報過多に晒され、自己主張のつもりだろうが、これが度を過ぎてるとは気づいていない。

何様のつもり‥なのである。

サラリーマンの悲哀くらいで済んだら結構。

これが結構尾を引くのである。

「絆」ばやりであるが、うわべだけの「そのつもり」か「そのふり」程度が罷り通っていて、エセ絆でその場をごまかし、耐える・堪えるをすりかえているのである。

 

 

 

スモール・イズ・ビューティフル

 シューマッハーの著書である。

その中に「発電所などは大規模な設備を作らずに、小ぶりにして国土全体に分散することで、リスクを最小限にとどめられる」と述べている。

安倍首相がオリンピック委員会で発言した「福島の事故はコントロールされている」という言葉を信じている人が本当にいるのでしょうか?。

福島をあのようにしてしまった大規模思考は、危険な放射性元素を10万年もの長きにわたって安全に保管する技術もできないうちに、目先の市場原理だけで推し進められた。

そして誰も責任は問われないまま、時間経過の中に忘れ去られようとしている。

 

 自分は個人の生活もスモールイズビューティがいいと思っている。

気も小さい男かもしれないが、でかい夢など歌謡曲のセリフだけで十分だ。

身の程を知り、足るを知り、ささやかな幸せに喜びを知っている。

 

 

フィンランディア

 言わずと知れたシベリウス交響詩

これを「ら・ら・ら・クラシック」で解説・演奏していた。(NHK総合の土曜日夜放送)

フィンランド賛歌で第二の国歌とも云われており、あらゆる脅威や困難に対してフィンランドは立ち向かうだけでない、それを通して目覚めるのだそうである。

 

曲の後半、あの美しい旋律をフルートとオーボエが奏で始める。

グッと目が潤みだす。苦難を乗り越えたあとにくる何ともいえない歓喜の希望感が湧いてくる。みんなで心をひとつにしたくなる。

そう!、あの東北での大災難の鎮魂歌としてもよく演奏された。

よく聴きなれた唱歌「故郷(ふるさと)」も似たような情感をかもし出すことを、あの時知った。

そしてベートーヴェンの第九交響曲もあの時世界のあちこちで演奏され放送された。

いい音楽の持つチカラは民族を超えるし、思い至る情景も同じだ。

 

 安っぽい商業音楽が幅を利かすメディア、それに巻き込まれ落ち着きを無くした多くの現代人に、美しい名曲たちに気づいて、もっとゆったりと生きなおして欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱皮

「あのさ、ヘビが脱皮するの、どうしてなんかな?」

「それはね、とにかく脱皮を繰り返してるうちにさ、今度こそ足が生えて出るんじゃないかって試してんだよ。今度こそ、今度こそ、ってさ」

何かの小説にそんな一節があったような・・・

 今日とは違う明日を夢見て脱皮しようともがき、幾度、夢に裏切られただろう。

でも、カフカの「変身」のようにヘタに変わるのも怖いもんだよ。

日常の有難さに気づきながらも、進歩という変化を促す習慣につい捉われているとは教育は恐ろしい。

 

 

サバイバル

現実に今の日本で何が起きているのか?、何がこれから起きるのか?

そのために私たちは何をすべきなのか?

そりゃ楽なことは、たしかに、マスコミが言うままを信じ、日本で起きてる事、世の中で起きてる本当のことなんか知らなくていい、マスコミに洗脳されたままの方が。

情報リテラシーを高めようにも「真実」の情報が知らされない以上、最上の安全策は市場経済至上主義のお世話にならないことではと思います。

例えば」、田舎へ移住し、自給体制に限りなく近いライフスタイルを構築し、お金を極力遣わないことを千思万考することです。

それは発想から変えなきゃいけません。

これからその経験を積み、変人と言われることを受け流し、

年金の破たんが来ようが、街住みのライフラインやインフラが汚染されようと、

きれいな山と畑と燃料があれば最低限生きてはゆけます。

その試行錯誤などこれから書きこんでいこうと思います。

アレークロッピング‥?!

 焼き畑農業の代替農法として、イギリスのマイク・ハンズという学者が考えた農法だそうだ。

焼き畑農業も今や市場経済の論理でペースが過剰になり、森の再生を待てないまま別の場所に移って行くため、世界の森林がどんどん減っていくらしい。

昔ながらのやり方は循環農法で、むしろ生態系の維持管理の役目も果たしていたのだが‥。

 

そこで、

「インガ」と呼ぶ豆の木を並木のように列植えし、その間に作物を作っていくらしい。(アレーというのは列という意味)

インガは成長も早く、マメ科だから地中にチッソを取り込んで貯めてくれます。

成長したインガの木々で直射日光を遮り、雑草の繁殖を抑えられる。そのうえ地表を乾燥から守り、インガの落葉が地表を覆います。その腐食は堆積するにしたがって土が肥えていくわけだ。

列の間に育つ作物には日照が遮られないようにインガの茂りすぎた枝を適宜切り落としながら、管理していく。

これがすでに中米のホンジュラスでは成功していて、これを世界に広めれば、森林が保護され温暖化も抑える役にも立つそうだ。